河竹会ブログ

被爆地長崎から

 夏休み折り返し地点の8月10日です。 
 昨日は、 8月9日    長崎にとっては、 一番長く重い意味を持った日でした。 
 私は、 昨日は 長崎大学病院に入院している生徒さんを見舞いました。 
 行く途中に 平和公園の入り口前を通り、 原爆落下地点を通過し、 大学病院に向かいました。 
 65年前の あの日   普通に暮らしていた長崎市民を 一発の原子爆弾が襲いました。
 今 長崎で平和に暮らしている私たちには、 想像もできない地獄絵が 当時の長崎には ありました。 
 私の祖父は、 長崎三菱重工に勤務していたので、 被爆していてもおかしくないのですが、 たまたま 広島に出張で向かい、 広島から帰ってくる途中 北九州で 広島で原爆が投下されたことを知ります。 
 そして 長崎市に入ろうとしていた矢先、 長崎にも原爆が投下されたことを知ります。 
 広島・長崎で 被爆された方もいらっしゃると聞いたことがありますが、 祖父は 両市の被爆を免れた 強運の持ち主だったのかもしれません。 
 被爆され お亡くなりになった方には、 申し訳ないお話かもしれませんが、 人の運命というのは、 わからないものです。
 当時 父は、 島原に疎開していました。 原爆が投下されてから、 大八車(リヤカーのような車)に乗せられ瀕死の状態の被爆した方が 島原まで次々と運ばれてきたそうです。 その姿を見て、 父は、 祖父は絶命したものと思っていたそうです。
 あまりの悲惨な状況に 当時8歳か9歳だった父は、 言葉がでなかったそうです。 
 この話は、 私がずいぶん成長してから聞きました。 
 父自身 大人になっても なかなか 口にすることができずに いたようです。
 心理的に言えば、 心的外傷後ストレス障害(PTSD)が あったものと思われます。 
 そして 時折 フラッシュバック(ショックな状況の残像が 時折目の前に浮かぶ)も あったのだと思います。 
 父が 私に話したときは、 号泣していました。 
 私の友人のお父さまは、 被爆し 60歳を過ぎてから 次々とガンにかかりました。 
 放射線を浴びると 年数が経てから ガンや悪性腫瘍という形で 原爆はキバをむき、 次から次へと被爆者を苦しめます。 
 放射能は、 恐ろしい物質です。 
 誰を恨めばいいのか。 何に訴えればいいのか。 やるせない思いの被爆者は、 たくさんいます。 
 当時の長崎に 住んでいらっしゃった方で 原爆の惨禍を逃れ やっとの思いで、 これまで生きてこられた方には、 大なり小なり 心の奥深いところに閉じ込めてしまっている感情が あるのではないでしょうか? 
 簡単に触れることは できないと思いながら、 でも核兵器は絶対使ってはいけない、 世界が平和に向かわないといけない、 そういう強い思いを 私たち長崎に暮らすものは、 受け継いでいく責務があると思います。 
 今年は、 アメリカ大使が初めて 広島の式典に出席しました。 
 一歩前進かもしれません。 
 でも 謝罪は しない。 今でも アメリカ国民の中には、 原爆を肯定し、 原爆を投下したからこそ救われた命がたくさんあるのだということを 是としている国民感情があるそうです。 
 それは、 自分達がやった過ちを弁護する詭弁としか思えません。 
 原爆は どんな言葉でも 肯定できるものではありません。 
 きっと そういう意見を持つアメリカ人でも広島・長崎の被爆者の声や惨状を目にすれば、 見方が変わっていくと思います。
 悲惨な世界が繰り返されることがないよう、 長崎から平和の鐘と声を静かに それでも深く厳かに ずっとずっと続けてあげていくことが、 私たち受け継ぐものの役目だと思います。 
 昨日は、 心を込めて 黙祷しました。

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